お風呂屋さんの日常。

本当の故郷は自分に似ている人に一番多く出会う場所だ。

「言語は現地を映し出す鏡である」、『語学の天才まで一億光年』(高野秀行 著)

 

 私たちの思考は、日常的に使用している「言語」にかなり規定されている。

 よく出される例として、虹や雪を構成する色の数が「言語」の種類によって違っていることが挙げられる。実際、その「言語」の使用者にとって、世界はそのように見えるのだ。そして、世界の見え方だけでなく考え方もまた、「言語」に大きく影響を受けている。

 つまり私たちは、「言語」というフィルターを足がかりとして、この世界を把握していると言えるだろう。もっと言いかえるなら、私たちは知らず知らずのうちに「言語という家」に住んでいるのだ。

 本書で著者は、「言語」には二つの機能があると述べている。ひとつは「情報を伝えるための言語」、そしてもうひとつは「親しくなるための言語」である。

 前者の伝えるための言語に関しては、近年におけるITの発展によって、個人の能力に頼る側面は少なくなってきている。しかし後者の言語機能、つまり他人と親しくなることにおいては、今もその役割を失っていないのではないか、と著者はいう。

 同じ「言語」を学ぶという行為が、仲間意識の芽生えに繋がっているのは、私たちが「言語という家」に住んでいるからなのではないか。「言語という家」には、その「言語」が辿ってきた歴史や文化、考え方にいたるまでが刻印されている。

 著者の言葉を借りれば「言語は現地の社会状況や歴史を映す鏡なのだ(p.73)」。

 長年住んできた家と同じように、ひとつの「言語」は完全には他の言語に翻訳することができない。その「言語」でなければ表現できない何かがそこにはあるのだ。だからこそ、「言語という家」に招き入れられ、それを理解しようとすることは友好の証となりえる。

 本書を読み進めていくと、印象的なキーワードがいくつも立ち現れてくる。

 たとえば、「言語内序列」「語学ビッグバン」「マジックリアリズム」などなど。その言葉たちには、著者の経験や思考の痕跡が詰まっていて、言語学が好きな人だけでなく、人類学や社会学、世界史などに関心がある人にもおすすめできる内容だ。